みなさんこんぬづわー!
今日は「いいね!南三陸町」が選ぶ南三陸百景から、南三陸町と気仙沼市にまたがる山、田束山(たつがねさん)をご紹介します!
標高512.4メートルの山嶺で、南三陸町最高峰です(^∀^)ノ
早速いってみましょう!(*> ᴗ •*)ゞ
概要だよっ
- 南三陸町最高峰(標高512.4メートル)
- 志津川湾・歌津崎が一望できる展望スペースあり。金華山や気仙地方も海岸まで見渡せることも
- ツツジの群生地。5月は山頂付近のツツジが満開
- 古くは山岳信仰の霊山。山頂の経塚群をはじめ数多くの遺跡が眠っている
田束山の歴史と史跡
田束山の歴史
田束山は古くより山岳信仰の霊山であったと伝えられています。山頂にある解説案内板によりますと、
はっきりした開山時期はわかっていないようですが、平安時代初期の後半、仁明天皇の承和年間(834〜848年)に開山した記録から、九世紀半ばには信仰の場となっていたのではないかと考えられています。
平安時代末期の安元年間(1175〜77年)には奥州藤原氏の三代・秀衝が
山頂に羽黒山清水寺(せいすいじ)、
山腹に田束山寂光寺(じゃっこうじ)、
北嶺に幌羽山金峰寺(きんぶじ)の七堂伽藍や七十余坊を建立
四男の本吉四郎高衡(もとよししろうたかひら)にその祀祭を任すなど、田束山信仰の中興を担いました。
源頼朝の奥州征伐(文治5年、1189年)により奥州藤原氏滅亡 後に頼朝の家臣、葛西氏の所領になる。
葛西氏は、田束山の寺社の管理を家臣の千葉氏の一族に委ね、天正18年(1590年)に豊臣秀吉により滅ぼされるまでの間に四十余坊を建立しました。
葛西氏滅亡後は伊達政宗の所領となりました。政宗が寺領三千石を寄進したものの、時代の流れとともに緩やかに衰退を続け、幕末から明治の中頃にはほぼ廃絶したようです。
現在は、山腹にある計仙麻大島(けせまおおしま)神社の境内や金峰寺跡などに往時の礎石を残すのみとなりました。
田束山の史跡
そうした歴史的背景から、数多くの史跡が眠っています!
- 山頂にある田束山経塚群から法華経十巻の断片が納められた青銅製の経筒や陶製の三筋壺(さんきんこ)が出土!
- 調査の結果、平安時代末期の貴重な経塚群であることが判明!
昭和52年4月26日に宮城県指定史跡となりました。
昭和63(1988)年から平成9年(1997年)にかけて山頂にある田束山経塚群から計仙麻大島神社境内とその周辺で5回にわたり発掘調査が行われ、鎌倉から室町時代の興隆を示す数多くの遺構や遺物が出土!
これ以外にもしかすると発見されていない遺跡が眠っているかもしれませんね…!
平成25年5月に南三陸町と気仙沼市が設置した田束山頂付近の案内板なのですが、実はこちら、元々合併前の旧歌津町と旧本吉町が設置した案内板がありまして、アップデートしたものなんです
田束山
一 海抜五一二米 本吉郡中屈指の高峯である。
古昔から霊山として開かれ、近郷近在の尊崇を集めていた。開所は不祥であるが、仁明帝の承和年中、(西暦八三四年〜八四七年)に天台宗に改宗したと言うことである。
平泉の藤原秀衡 深くこの山を尊信し、山頂に羽黒山清水寺 山腹に田束山寂光寺 北嶺に幌羽山金峰寺及び七堂伽藍を建立し、本吉郡の総鎮守とし 第四子 本吉四郎高衡をして祀祭せしめた。
僧坊は開山当初三八〇坊あったがその後荒廃し、一七〇坊に減り 秀衡支配時は七八坊となった。文治五年(西暦一一八九年)源頼朝の代官・葛西清重の手に移り以後四百年間その治に属した。この間、葛西も四〇余坊を建てている。天正一八年(西暦一五九〇年)葛西氏も秀吉の小田原攻略に応ぜざる故を以て所領を没収せられ以後は伊達氏の所管となり明治に及んでいる。伊達氏も寺として三千石を寄進していた。
明治二年神仏合祀の禁止により計仙麻大島神社となり、同六年郷社に列せられた。
二 昭和四六年 山頂において十一個の経塚群を発見。元東北大学教授・伊東信雄氏の指導を得てその一個を発掘 青銅製経筒に収められた経文(法華経十巻)を確認した。調査の結果八百年前の平安時代の埋経であることがわかり、学術上貴重な資料とされている。
変転星霜寺坊は山火に焼け雨露に朽ちいま残るものは往時の工事跡と礎石のみであるが、山頂に立って首を廻らせば 眼下に展開する渺茫(びょうぼう)たる太平洋 背後に連なる北上山系の層巒(そうらん)等千古の面目に今尚接することができる。
昭和四十七年十月歌津町南三陸町本吉町気仙沼市
改めて見ると、表記が硬いですねー。
一言一句厳かさが伝わってきます。
ツツジの名所
田束山では毎年5月になると、ツツジが満開になります!
アクセス
南三陸ハマーレ歌津から車で約30分(山頂付近まで車で行けます!大型バスも駐車できる駐車場もあります)
登山道もあります!